【本の感想】村上龍『イン ザ・ミソスープ』

村上龍『イン ザ・ミソスープ』

1998年 第49回 読売文学賞受賞作。

村上龍『イン ザ・ミソスープ』は、残虐な手口で殺人を繰り返す外国人観光客フランクと、彼を風俗へアテンドする羽目になった主人公ケンジの数日を描いた作品です。

ケンジは、フランクの怪異な容貌と虚言癖、不可解な行動に不快感を募らせながらも、時折見せる沸騰した怒りの様相に戦慄を覚えます。これは怖い!本作品のカバーイラストがフランクのイメージを上手く伝えています。バッティングセンターでの奇矯な行動と、前頭葉を切り取られたという発言に、ケンジならずとも怖気を震ってしまうでしょう。

この頃発生している殺人を、ケンジはフランクの手によるものと疑いながらも、逃げ出す事ができません。どうやらフランクは、ケンジの全てを探り出しているようなのです。知らなくてよい事が気になり始め、調べれば調べるほど雁字搦めになってしまうというシチュエーションは、日常的によくあります。

そして、ケンジは、案内したお見合いパブで、フランクによる大量殺人の現場を目撃することになるのです。冷静にその場にいた人々を殺していくフランク。まさに血の海と化した殺戮シーンは、人体の破壊と表現してもよいくらいで、おぞましさが爆発します。自分は、グロテスクな表現には慣れているつもりですが、フランクその人の異様さと相まって慄然としてしまいました。

どうなるケンジ、どうするケンジ。ケンジは、フランクに殺されてしまうのでは、という疑念が頭から離れません。

本作品は、サイコパスものでしょうか。いえいえ、 グロテスクなだけのサスペンスではないのです。ラストのフランクの語りが、この作品の本質を表しているでしょう。フランクを通して、去勢されたが如くの、現代日本人に対する著者の嘆きを感じます。読了した時に、タイトルの意味を深く考えされられました。

今のこの国では、自分一人で処理できない不幸なことをまったく経験しないまま大人になれる人間は非常に少ない。

イヤなやつはイヤな形でコミュニケートしてくる。人間が壊れている、というとき、それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。その人間とのコミュニケーションを信じることができないときに、そいつを信じられないやつだと思う。

本作品は、ヴィム・ベンダース監督で映画化される計画でしたが、ハテ?、どうなってしまったのやら・・・単なるホラーにならなきゃよいけれど。

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