【本の感想】辺見庸『自動起床装置』

辺見庸『自動起床装置』

1991年 第105回 芥川賞受賞作。

子供らが小さな頃、彼らを朝起こすのは、ひと仕事でした。一人でも手を焼くのに、五人も子供がいるとかなりのパワーを要します。起こされている方も不機嫌なら、起こしている方も不機嫌にならざるを得えません。この不機嫌の連鎖を乗り越えるところから、一日が始まるのです。日々を快適に過ごすためには、気持ちの良い目覚めが必要なので、それぞれに合った起こし方を工夫しなければなりません。

辺見庸『自動起床装置』は、そんな自分の朝の情景を顧みて、激しく共感をしてしまう作品です。

通信社の宿泊センターのアルバイト 水田は、宿直者を時間通りに起床させる「起こし屋」です。「起こし屋」は、百六十人分の寝床を周り、宿直者それぞれに決められた時間に、心地よく目覚めさせることが主たる仕事。宿直者の体に直接触れるのはタブーですから、名前を呼ぶだけで起こさなければなりません。不快な目覚め方や、寝坊をさせてしまうと、センター長へクレームがいくという、センシティブな役割なのです。

こういう職業が実際に存在するのかは知りませんが、薄暗闇の中、「フネ」と呼ばれる人熱れのムンムンする大部屋で、人を起こすというのは、何とも不思議な情景です。本作品の解説では、眠りと中有(中陰)の状態、つまり現世でもあの世でもない中間の領域との関連を示唆しています(中陰については、玄侑宗久『中陰の花』で言及されていました)。なるほど、大勢の人々の中陰の状態が詰め込まれた「フネ」の中で、「起こし屋」が人々を現世に引き戻している様は、儀式的なものを感じます。(リンクをクリックいただけると感想のページに移動します

水田のアルバイトの先輩 聡は、眠りについて一家言持っています。キリストの磔になったポプラが、その罪深さゆえに震えているという話等々、聡の開陳する話は、興味を惹きます。その中でも、聡の眠り哲学というべきものは、具体的なイメージを伴なって訴えかけてきます。

・・・寝言って、樹木が着ている無数の葉っぱのなかの一枚か二枚が、枝から離れて地上に落ちるまで、宙にフワッと浮いている状態のことのような気がする。葉が地上に達すると寝言も終わる・・・。幹に関係あるけど、幹を決定しちゃいない

眠りは眠りとして、起きるのとべつにあるんだぞと、仕返しする。眠らせないという仕返しをしたり、ひどい夢で裏切ったり、寝言をいわせていたずらしたりする

やがて、宿泊センターでは、機械仕掛けの自動起床装置「森のめざめ」の導入が検討され始めました。聡は言います。

眠りの芯のところは、機械がいじったりしてはいけないところなんだ。ちっちゃな神さまがすんでいるようなところなんだから

機械による起床は、人間の罪であり、そうすると人はポプラのように震えて眠ることになるのではと懸念するのです。

自分は、眠りに芯があって神様が住んでいるという、この愛らしい考え方が気に入っています。人の眠りの中には、ひっそりと典雅なものがあって、緩やかに触れられるのを望んでいるような感覚です。

本作品の結末は、聡にとって皮肉なものとなります。確かに、現実はそういうものだと思いつつも、聡の眠りを語る豊かな感性には、そこはかとなく魅了されてしまうのです。

さて、自分は、子供らを起こすのは苦手ですが、子供らの寝る瞬間の顔を見るのは好きでした。ふーっと、力が抜けて、ぽわわーんと幸せが宙に舞うように思えるからなのです。もっとも、子供が大きくなると、こういう密やかな楽しみは、気味悪がられるだけですけどね。

同時収録の「迷い旅」は、戦時下のカンボジアへ乗り込んだジャーナリストのお話し。こちらは、「自動起床装置」とはトーンが違って、危険と背中合わせの心細さが迫ってくるような作品です。