【本の感想】玄侑宗久『中陰の花』

本の感想 玄侑宗久『中陰の花』

2001年 第125回 芥川賞受賞作。

自分の周りには、不思議な事がたまにあります。所謂、人ではないものにまつわるアレコレ。皆、怖がるので 大っぴらには言っていないのだけど、生来のチキンの自分であっても、もう慣れっこです。多分、人が知らない方が良い事ってあるんじゃないか、そう思って放っておくようにしています。

玄侑宗久『中陰の花』は、生と死の中間の領域=中陰をテーマにした物語です。作者が現役僧侶であることから、説教臭さを警戒して長らく読むのを躊躇っていたのですが、それはいらぬ心配でした。

臨済宗の僧侶 則道は、余命いくばくもない、おがみやウメさんのことが心から離れません。ウメさんは、自分の死ぬ日を予言しているのです。妻の圭子は尋ねます。

 「なあなあ、人が死なはったら、地獄行ったり極楽行ったり、ほんまにあるんやろう?」

則道は、それに答えて、質量不滅の法則から中陰の状態を説き、科学的な観点で成仏ということへ話を敷衍していきます。ただ、則道の率直な答えは、

 「知らん」

です。

僧侶としての教えとは別なところで、則道自身が迷いの中にいるようです。観念論的な世界観を、受け入れきれていない。だからこそ、則道は、ウメさんの死を看取って中陰を確かめたいのでしょう。

則道と圭子の子は、生まれることなくながれてしまっていました。女性は体内にいるときから子に愛情を注ぎ、男性は生まれ出でた瞬間からわが子になると聞いたことがあります。則道と圭子は、まさにそういう夫婦の姿です。喪失感に苛まれた圭子は、紙縒(こより)をつくり続けることによって祈りを捧げています。ウメさんの死をきっかけに中陰を受け入れた則道は、やっと圭子の気持ちに気づくのです。

世界観とは、所詮は全貌を見せてくれないこの世を切り取って観るためのナイフにすぎない。

自分の理解を超えたところにも別の世界観は存在します。この則道の気づきは箴言として響いてきます。

ラストシーンでは、則道によるわが子の供養のための読経が、紙縒りが張り巡らされた本堂に響きます。ふわりと優しさに包まれたような静謐さに、心地よさすら感じるでしょう。則道と圭子が交わす微笑は、これからの近づきつつある二人の距離を表象しているのだと思いたいですね。

本書に収録の『朝顔の音』は、過去に嬰児を殺してしまった女性の今を描いています。こちらは、救いがなくひたすら重い作品です。