【本の感想】森島恒雄『魔女狩り』

本の感想 森島恒雄『魔女狩り』

小学生の頃、少年マガジンで連載されていた永井豪『デビルマン』は、衝撃的でした。クライマックスでは、狂気に駆られた人々が、同じ人間に対して残虐な行為を繰り広げるのですが、このシーンが当時、ただの太った少年だった自分(肥満児だったなぁ)の心をいたく傷付けたのです。魔女狩りという概念に初めて触れたのが、『デビルマン』だったと思います。

森島恒雄『魔女狩り』は、15世紀から17世紀の中世ヨーロッパを中心に吹き荒れた、魔女狩りの本質を探るものです。

まず、中世ヨーロッパが、法皇を君主とする世界国家であったことを念頭に置かなければなりません。法皇は、キリスト教国において秩序を維持するための絶対権力者であったといいます。法皇が主権者たるカトリック教会(世界教会)が、世俗の世界の支配を維持し続けるには、法皇や聖職者に反旗を翻すもの(異端者)を排除する必要があります。13世紀に起きた異端運動は、カトリック教会に恐慌をもたらし、異端を弾圧するための異端審問制が創出されていくのですが、このことが魔女狩りと深い関わりを持つようになると著者は説きます。

ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』は、ちょうどこの時代背景を題材としたものだそうです(傑作の呼び声が高いウンベルト・エーコの原作は、残念ながら未読)。映画に登場する異端審問官ベルナール・ギーは、本書にてその業績(?)が紹介されています。

異端審問と魔女裁判(呪術を持って禍をもたらすものの裁判)はそもそも同じではなかったのですが、魔女裁判官の必携の書『魔女の槌』が、魔女裁判を異端審問として正当化してしまったといいます。異端論争では専門家たる異端審問官が負けることがあって白黒つけるのは難しいのですが、魔女裁判は自白さえとれれば良いのだから能率的な異端審問となるのです。

有罪となった異端者は火刑の上、財産を没収することができるため、除々に錬金術に形を変えていきます。拷問の適用が奨励されていたので、自白を強要し、無理やり仲間をでっちあげさせることで、裁判という儲かる仕事を拡大していくようになります。おまけに、魔女としての有力な証拠として世間のうわさを採用していたため、魔女が爆発的に増えしまうのです。なんと、魔女のマーク(身体の痣)は、針を刺しても無痛で血がでないと信じられていたことから、針刺しという魔女発見のための職業もあったとのこと。

本書には、拷問を受けて虚偽の自白してしまった人々の手紙や、有罪となった人々が賄うべき裁判費用明細書(処刑吏の手当や、要人の食事代も含まれる)が引用されています。暴虐としか言いようのない史実。著者が感情的な記述をしていないがゆえに、なおさら痛ましく感じます。300年以上経過した今であっても、読者には、深い悲しみと同時に、やり場のない怒りがこみ上げてくるでしょう。

自白をすると「悔悟者として」絞首の上火刑、自白をしなければ生きながらの火刑。捕縛されれば、死すべき運命しかないため、虚偽の自白により苦痛を和らげようとした無実の人々。キリスト教国の犠牲者は、30万とも、300万ともいわれています。

本書を読んで、驚愕するのは、当時の知識人、博識者が率先して魔女裁判を支持していたこと。プロテスタントのような近代化運動の推進者や、実証主義とヒューマニズムに根ざしたルネッサンス人でも同様です。箒に跨って集会所に集い、悪魔と契りを結ぶものがいると、本気で信じていたのです。ルターやベーコンでさえも、魔女に関しては中世に片足を踏みとどめていたといいます。神と悪魔を概念として捉えることが難しい自分にとっては、理解し難いことです。

著者は、魔女裁判が廃れていくのは、近代科学に基づく合理的な精神によるものではなくて、世界国家が、魔女を造る必要がなくなったからだとしています。こう考えると、いちばん恐ろしいのは、人間の本質なのです。

「新しい魔女」はこれからも創作され、新しい『魔女の槌』の神学が書かれるかもしれない。

著者の結びの言葉が心に残ります。人は歴史から正しいことを学ぶべきです。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

オットー・フォン・ビスマルク

『デビルマン』を読んだ少年の頃の、やるせない気持ちを思い起こしてしまったなぁ。