【本の感想】泉鏡花『春昼・春昼後刻』

泉鏡花『春昼・春昼後刻』

春昼(しゅんちゅう)とは見慣れない言葉です。

春の麗らかな昼間、ということになりますか。後刻(こうごく)は、しばらく後の意味ですから、春昼後刻は、麗らかな昼、そしてその後、なのでしょう。

泉鏡花『春昼・春昼後刻』に収録されている二作品「春昼」「春昼後刻」は、続きものの中篇です。

タイトルから、穏やかでゆるゆるした物語を想像しますが、そうではありません。泉鏡花が大好きなお化けや妖怪は登場しないけれど、夢物語の如き艶やかな不気味さが作品を包み込んでいます。幻想譚と言ってよいでしょう。

■「春昼」
旅人(文中では散策士)が、散歩がてらに立ち寄った寺で、その住職が語る悲恋物語です。

ひとりの青年が、寺に逗留中に見初めた美しい女性。その人、玉脇みをは、財産家の人妻でした。青年は、玉脇みを との偶然の出会いだけを心の頼みとして、日々を暮らすようになります。言葉すら交わしたことのない人妻に恋焦がれ、取り憑かれていく青年。

ある夜、堂の裏山で、青年は忽然と現れた舞台に目を奪われます。そこでは、玉脇みを と、それに寄り添うように青年自身が芝居をしているのです。慌てて寺に戻った青年は、住職に全てを告げ寺に引き籠るようになります。話を聞いた住職は、それとなく青年に気を配るのですが、程なくして青年の死体が海で発見されるのでした ・・・

長閑な春の日差しの中、散策士と住職の何気ない会話が、いきなり怪異な話へ転じていきます。冒頭、散策士は、菜の花畑の中で突如現れた蛇に怖気を振るいます。このシーンは、奇怪な話の流れに符牒するようです。

濃い睫毛から瞳を涼しくみひらいたのが、雪舟の筆を、紫式部の硯に染めて、濃淡のぼかしをしたようだった。

と玉脇みを の美しさを表現する青年。

目が合い、話声を聞いただけで有頂天になり、ちょっとした行き違いで打ち拉がれる青年の惚れっぷりが凄まじいのです。岩をも通す一念で、ついに夢幻の世界で寄り添うまでになります。結局、ドッペルゲンガーを見た青年は命を落とすのですが、寺の住職の話とともに「春昼」は、ここでぷっつりと終わってしまいます。

「春昼」では、玉脇みを が寺の柱に貼り付けた小野小町の歌

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

の意味は、謎のまま残されます。

■「春昼後刻」
寺を後にした散策士と、玉脇みを の出会いから物語が始まります。

会話を重ねるうちに、散策士は、玉脇みを の言動に違和感を感じます。玉脇みを は、不可思議な悲しみの感情に囚われているのです。散策士は、青年の夢の逢瀬が、玉脇みを に感応してることに気付いていきます。「春昼」の小野小町の歌は、ここにきて意味が分かるのです。

玉脇みを は、散策士の目の前で、通りかかった角兵衛獅子の少年に言付けを渡します。

君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし

宛先は、玉脇みを が、知るよしもない青年を指し示す記号です。ただ少年に持っていてくれれば、それで良いと言います。果たして、行き場のないその書付けは、誰に届けられるのでしょうか。物語は、不気味なラストを迎えます。

夢で逢えたら素敵なことね♪…ハッピーさは些かも感じませんが、ロマンチックな作品ではあります。これが、泉鏡花らしさなのかもしれません。

名無しの散策士を媒介にして、「春昼」の過去と「春昼後刻」の現在を繋いでいるため、両作品を一つの物語として読まなければなりません。物語もさることながら、こういう構成の妙も良いなぁと思います。

なお、本作品は、鈴木清順 監督『陽炎座』に、他のいくつかの作品と共に取り入れられているようです。

1981年公開 松田優作、大楠道代 出演 映画『陽炎座』はこちら。

1981年公開 松田優作 主演映画『陽炎座』
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