【本の感想】鯖田豊之『肉食の思想-ヨーロッパ精神の再発見』

鯖田豊之『肉食の思想-ヨーロッパ精神の再発見』

鯖田豊之『肉食の思想-ヨーロッパ精神の再発見』は、日本人の立場で、ヨーロッパ(アメリカを含む文化的ヨーロッパ)の思想的伝統を解明する試みです。海外の著作の引き写しではなく”日本人の立場で”というのがミソ。本書は、食という尺度を用い、深い知識と洞察力で著された比較文化論です。

ヨーロッパの食が、階層意識、社会意識といった思想形成にどのような影響を与えたか、それに反撥する個人意識との関係はどのようなものであったかが述べられていきます。ヨーロッパの思想の根底にあるのが、日本人にとっては異質なものであり、日本の欧米化は、思想の表層的な輸入だけに終始していることが良く理解できます。

まず、著者は、牧畜的世界ヨーロッパを、熱量自給率や播種量から見た生産力、一人あたりの農耕地面積といったデータを用いて解説します。そもそも、人間は、農作物を直接摂取する方が効率が良いのですが、不経済な肉食の比率が高いのは、気温や湿度の風土的な条件が家畜飼育に適しているからだとしています。勝手に生える食用にならない草が、牧草として活用できるからです。高い肉食率から、人間と動物を断絶する=断絶論理、そして人間的なものを絶えず追及する=人間中心主義が産まれてくるといいます。

面白いのは、性生活を、秘蹟として結婚に封じ込めたようとしたキリスト教の考え方です。動物の生殖行動を目の当たりにする機会が増えることにより、性生活を動物的本能に基づくものとして拒否するようになったのです。ヨーロッパの徹底した、断絶理論の証左といえるでしょう。

著者は、ヨーロッパの階層意識は、この人間と動物の断絶が身分制まで投影していると続けます。日本の士農工商といった身分制が、観念的にしか存在していなかったのに比して、ヨーロッパは、現在においてもこれが暗黙的な社会規範です。肉食が階層意識の源泉になっているという著者の主張は、風呂敷を広げた感や、こじつけ感は全くしません。むしろ、精緻な論理構築の技巧に魅せられてしまいます。

さらに、著者は、社会意識について、穀類の摂取方法へ言及していきます。穀物生産力が低いヨーロッパの条件化では、消化吸収率の良いパン食が普及し、結果として食品工業の比率が高くなります。ここでは、家族や家庭の役割が小さく、社会的な結びつきの方が重要になってきます。穀物の生産においても、生産力水準を維持するためには、社会的な協力関係が必要です。日本は、個々の農家の独立性が強く、穀物生産力が維持できるのはご先祖さまの努力のおかげという思想があります。家族意識と祖先崇拝が、基本なのです。ヨーロッパは、先祖伝来の田畑という概念はなく、感謝するのは過去の祖先より現在の仲間であるといいます。社会意識については、日本とヨーロッパは、対極に位置するということになるでしょう。

最後に、著者は、個人意識について述べます。ヨーロッパの「自由と平等」は、個人意識が満足するフィクションだと主張しています。伝統的な階級意識や社会意識と、それに反撥する個人意識の対立を和らげる一種の解毒剤が「自由と平等」であって、個人意識、社会意識、階層意識は、お互いの行き過ぎをチェックする三つ巴の状態で均衡を保つといいます。この「自由と平等」という大儀名分が、思想的伝統の全く違う日本に入ると、フィクションが実体化され解毒剤以上の働きをしてしまうと断じます。

著者は、多数決の根本原理に触れ、フィクションが実体化された日本について、以下のように嘆息します。

少数良識派の存在を許容する思想的条件のないところで、定見ある指導者が生まれるはずはない。でてくるのは、いくらでも首のすげかえのきく、ロボット的指導者だけである。

本書は、1966年刊行ですが、残念なことにこの点は些かも変わっていません。ヨーロッパからの思想の表層的な模倣だけでは、日本に根を下ろし、日本独自の思想体系に組み込まれるのは難しいというとでしょうか。

著者の結びの言葉が、虚しく響いてしまいます。

欧米諸国に妙な劣等感をもつことを止めて、ほんとうの日本らしい生き方はどういうものか、腰をすえてさぐってみる必要があるのではなかろうか。

本書は、日本のリーダたる人に読んで欲しい名著です。