【本の感想】斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』は、戦闘美少女を通して、おたくとは何か、如何にして彼女たちは生成したか、を精神分析的なアプローチで解説したものです。

著者は、戦闘美少女をファリック・ガール(男性器をもつ女性)として、アウトサーダ・アーティスト ヘンリー・ダーガーの作品との類似性に着眼し、これまで、あまり語られなかった おたくのセクシュアリティを中心に論を展開していきます。海外のオタク(著者は海外のotakuをカタカナで表記)との違いをインタビューから明確にし、漫画・アニメの戦隊美少女の系譜を踏まえ、戦闘する美少女群というイコンの生成過程を導きだします。

著者は、おたくを、虚構コンテクストに親和性が高く、愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴え、多重見当識を生き、虚構それ自体に性的対象を見出すことができる人、としています。

おたく擁護の立場での論説であるのですが、さすがに10年以上前の著作。隔世の感が否めません。現在では、おたくは認知をと通り越して、もっと身近で、マニアと同類語のように使用されていると思います。しかしながら、本書は、どこか病理的なものを持ち込んでいるので違和感が生じてしまうのです。

(おたくは)「実体」や「実効性」への志向がむしろ乏しい。彼らは自分の執着する対象に実体と呼べるものがないこと、その膨大な知識が世間では何の役にも立たないこと、あるいはその無駄な知識が軽蔑され、警戒すらされかねないことを知っている。

おたくは「虚構と現実の混同」をすることは決してないが「虚構と現実の対立」を、さほど重視しない。彼らはむしろ、虚構にも現実にもひとしくリアリティを見いだすことが出来るのである。

おたくは、虚構と現実を易々と切り替えることができるので、虚構のリアリティの中にセクシュアリティを求めることができるのだそうです。思春期的な心性と、メディア環境のカップリングが戦闘美少女を必然的に生成すると、著者は確信しています。ファリック・ガールという概念は面白いのですが、これありきで、おたく論と結び付けているので、居心地悪く感じてしまいます。

日本固有の表象文化においてのみ、自律的なリアリティを維持するためにセクシュアリティを取り込むのだと著者は言います。さらに、戦闘美少女とヒステリー症に言及がなされていきます。

ファリック・ガールは、虚構の日本的空間にリアリティをもたらす欲望の結節点である。 
・・・さらに言えば、性欲を回収するための表層的存在という意味において、彼女はヒステリー的である。

ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間において鏡像的に反転したもの、それがファリック・ガールの戦闘行為だ。

結論ありきの印象が強くて、自分にはどうにも腑に落ちないところが多いのです。感情的なものも多分に左右しているのでしょうけれど、本書の構成が受け入れ易さを阻害しているのかもしれません。著者の主張が、「第六章 ファリック・ガールズが生成する」で語られているので、「第三章 海外戦闘美少女事情」、「第四章 ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国」、「第五 章戦闘美少女の系譜」に多数の頁を割く必要性が分かりません。読み物としては面白くあるのですが、詳細に入り過ぎて通底する思想を見失ってしまいます。

本書が書かれた頃は、おたくに対する向かい風が多少なりとも吹いていたのでしょう。出版当時に読んでいれば別な感想を持ったのかもしれません。10年前は、この様なおたく擁護論があったのだ、というモニュメントとして認識しておきます。

(*)アウトサイダー・アートについては、服部正『アウトサイダー・アート』をご覧ください。(リンクをクリックいただけると感想のページに移動します