【本の感想】諏訪哲史『アサッテの人』

本の感想 諏訪哲史『アサッテの人』

2007年 第137回芥川賞受賞作。
2007年 第50回群像新人文学賞受賞作。

諏訪哲史『アサッテの人』は芥川賞受賞作としては愉快な作品です。

失踪した叔父の、言葉にまつわる奇妙なおこないの原因を、小説という手段を使って解き明かそうとする「私」。残された日記から、叔父のあらゆる通念、あらゆる凡庸を、たえず回避しつづけようとする目まぐるしい転身本能を見出していきます。

ここでいう言葉にまつわる奇妙なおこないとは、叔父=明が日常で突如として発する周囲には意味不明の言語活動のことです。<<ポンパ>>、<<チリパッパ>>、<<ホエミャウ>>、<<タンポテュー>> ・・・
同一の言葉であっても、異なる文脈で使われ、他人が理解することを積極的に求めません。この言語感覚が、どうにも笑いのツボにはまってしまいます。

どうやら自分にも

自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して圧倒的に無関係な位置に至ること

への希求があるらしいのです。

他人の夫婦の諍いを目の当たりにして、夫の方にアドバイスをする明。「つまり、それは、タンポテューだ」という具合。明の妻 朋子、そして「私」がそれぞれの意味を解釈しようとする過程に、明の奇矯な行動を迎え入れようとする二人の暖かさが滲みでています。

明は幼い頃から吃音症に悩まされていました。矯正を試みるも失敗してしまうのです。ところが、二十歳のある日、郵便ポストを見て突然、吃音が治ります。世界に準じた言語感覚を身につけた明。しかし、このことで明は、狭隘な世界に閉じ込められる不快感に苛み始めるられるのでした。

「私」は、明が吃音を失って、もう一度「吃音的なもの」を求めはじめたのだと、その特異な言語活動を考察します。通念という檻に束縛される嫌悪感からの逸脱です。だから夫婦間の諍いのような凡庸さは<<タンポテュー>>を発する引き金になるのです。

タイトルのアサッテというのは、この通念からのねじれの位置にあるものへベクトルを与えた語彙です。「私」の明に対する思いが端的に表わされているようですね。

明は、エレベーターの監視作業で「チューリップ男」を発見し、激しく共感を覚えます。「チューリップ男」は他に乗員がいないエレベータ内で、お遊戯のチューリップの格好をして佇むのです。この人知れなずおこなわれるパフォーマンスのアサッテ感に共感しました。アサッテ男って、世の中に結構いるんじゃなかろうかと。

明が妻 朋子の事を記した文が心に残ったので引用しておきましょう。

このごろ女房は、どこで仕入れたのか
播磨の二童子伝説がお気に入りで
この二人の童子は
気まぐれに空へ飛んでいっては 洗濯物を乾かしたのだそうだ

空を飛ぶことが素敵なんじゃないの
空を飛ぶことが、ただ洗濯物を乾かすためだってとこが好きなの