【本の感想】川上弘美『蛇を踏む』
1996年 第115回 芥川賞受賞作。
自分の書く小説を、わたしはひそかに「うそばなし」と呼んでいます。・・・もしもこれを読んでくださるかたの中に、「うそ」の好きなかたがいらしたら、わたしの作った「うそ」の中でちょっと遊んでみてはくださいませんでしょうか。
川上弘美『蛇を踏む』の著者のあとがきの一文にこうあります。本書に収録されている『蛇を踏む』、『消える』、『惜夜記』の三作品は、著者の「うそばなし」です。
そもそも小説には多かれ少なかれ虚構が含まれているのですから、小説そのものが「うそばなし」のはず。著者の「うそばなし」は、明らかにあり得ない話をして、しれっとしているようなタイプの「うそ」。最初から「うそ」だとわかる「うそばなし」です。
でも、著者の「うそ」には不思議な魅力があります。騙してやろうの「うそ」でなくて、そういう事があってもいいんじゃないかという「うそ」なのです。どんなに「本当」っぽく書いていても「うそ」(虚構)が透けて見えて違和感だけが残る小説はいくつもあります。著者の作品は、「うそ」を前提としているのだけれど、読んでいると「本当」に溶け込んできて境目が曖昧になってしまいます。「本当」の中に「うそ」を持ち込んで、その「うそ」を「本当」の遊び場にしてしまうテーマパーク的な感覚があるのです。
さて「うそ」の裏側には何があるのでしょうか。舌を出しているのか、泣いているのか、照れ隠しなのか。
『蛇を踏む』は、蛇が人間になって、女性に纏わりつくお話です。蛇が死を暗喩するのであれば、孤独な女性が死に囚われている様を表していることになりますか。
『消える』は、姿が見えなくなっていく家族と、姿が縮んでいく家族の婚姻の話です。家族の崩壊とか、人間関係の希薄さと捉えれば良いでしょうか。
ただ、こういうふうに穿った見方をしていくと、これらの作品は存外つまらなくなってしまうのに気付きます。おそらく本作品は、深い意味なんてないのよと、あるがまま「うそばなし」を楽しんだ方が良いのです。そういう意味では『惜夜記』は、「うそ」の世界に「本当」が混入する逆のパターンのようで、何も考えず「うそばなし」を堪能できる作品でしょう。