【本の感想】塩見鮮一郎『異形にされた人たち』

塩見鮮一郎『異形にされた人たち』

【異形】い‐ぎょう 〔‐ギヤウ〕[名・形動]普通とは違う怪しい形・姿をしていること。また、そのさま。

デジタル大辞泉

塩見鮮一郎『異形にされた人たち』のいう異形とは、姿かたちを指しているのではありません。明治維新後の解放令によって、当時の知識人に改めて認識された江戸時代の賤民階層のことです。士農工商からドロップアウトした人々。彼らを異形とした近代社会は、差別と被差別の概念を持ち込んでひたすら同形化し、その存在を消し去っていった、と著者は説きます。

本書は、異形として発見され、忘れ去れていった人々についての論考を紐解き、著者の視点で解説を試みるものです。

民俗学に疎い自分は、取り上げられている書籍は読んだことはもとより、聞いたことすらありません。けれども、著者がアウトラインを述べ、それにそって批評を加えていくので、門外漢であっても理解を阻害するこはないでしょう。

通底するのは、近代社会のシステムが、異形を撲滅するための強引な手法を取ったにもかかわらず、差別と被差別は、今日においても存在していることです。

近代百数十年の歴史をふりかえれば、戦前戦後の区別もなく、「異物撲滅」のあくなき欲求に、国家も市民社会もが、とらわれていたのがわかる。いや、まだ、ここは過去形でいうことはできない。

近代百年以上、いまなお差別があるのは、江戸とはまた違ったシステムによって発動される差別がいまの社会にはあることになる。

著者は、明治維新で「身分」と共に「仕事」をなくした階層は、武士階層と賤民階層であったと述べます。賤民階層からすれば、職を失い、さらに被差別が存在し続けるという社会システムへの組み込みが、理解を超えていたということになるのです。

もう一つ通底するのは、研究に対する態度でしょうか。象牙の塔に閉じこもっている学者先生より、フィールドワークをこつこつ重ねている市井の研究者に重きを置いています。なので、著者は、柳田國男には批判的だったりして。

本書は、雑誌に寄稿されたものや、書籍の解説を一冊にまとめたものなので、記述の重複が見られるし、タイトルと直接関わりのない論考も含まれています。よって、「異形にされた人たち」から読者が連想するものにフィットしないこともあるかもしれません。著者の文章は巧みだし、なるほどと首肯する主張は散見されるのですが、まとまりを欠いている印象からどうにも抜け切れませんでした。

なお、本書は、現代の差別と被差別の問題について若干の記述はあるものの、深く踏み込んではいません。