【本の感想】セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』
1998年 週刊文春ミステリーベストテン 海外部門第5位。
1999年 このミステリーがすごい! 海外編第1位 。
文章を書くことが好きならば、一度は作家になることを夢想すると思います。
文学賞をとって、映画になって、ハリウッドでリメイクされて、長者番付のトップ10に名前をつらねて ・・・。こんなピュアでちっぽけ(!)な夢がぶち壊されてしまうのは、「一生かけてもこんなの書けんわ」な作品に出会ってしまった時です。
セオドア・ローザック(Theodore Roszak)『フリッカー、あるいは映画の魔』(Flicker)(1991年)は、夢見がちな自分をしこたまビビらせました。
1950年代。UCLAの学生ジョニー・ゲイツは、みすぼらしいクラシック上映館でマックス・キャッスル監督の映画を目にします。それはジョニーの一生を左右する映像体験でした。マックス・キャッスルの探求を続けるジョニー。ジョニーは、やがて、映画に隠された魔物に身も心も絡め取られていくのでした・・・
ストーリーは、ひとりの青年の数奇な運命を描いている至極単純なもの。しかし、それに肉付けされる哲学的とも、宗教的ともいえる虚実織り交ぜた巧緻な描写に、翻弄されることしきりです。
本作品は、まず、めくるめくコトバの奔流に幻惑されてしまうのです。マックス・キャッスル監督作「われら万人のユダ」を評した箇所を引用してみましょう。
独自のキャメラワークと矛盾するように、画面は深い心理学的な洞察にみたされ、精緻な建築のように積みあげた悪夢が大いなる背信を犯したのち、罪の意識に狂乱するユダの内面にぼくたちをいざなうのだ。
もちろん、マックス・キャッスルが架空の人物であるので、「われら万人のユダ」も存在しないのですが、ジョニーがマックス・キャッスルの映画を評する時、まさに実在するかの錯覚を覚えてしまいます。見たことも聞いたこともない映像作品に激しく心を動かされるのです。
実在する映像作品を含めたジョニーや、ジョニーの師となるクレア・スワンらの評論の応酬も見所です。キャラクターたちが、ある時は同調し、ある時は反駁するという、それぞれの性向を見事に表出した評論になっているのです。とても、一人の作家の頭から捻り出てきたと思えません。
いわゆる名画をボロクソに評しているシーンが多々あるのですが、映画や映画監督、映像テクニックについて造詣が深ければ、より一層、楽しめるのではないでしょうか。あの名シーン、あの名セリフを取り上げた作者の遊び心は、おそらく自分の知識では殆ど見逃しているのだと思います。本作品は、かなりの映画ツウ度を試されるのです。
B級ホラー映画をつくりつづけたマックス・キャッスルは、世界を揺るがす大いなる陰謀の一端だったことが判明していきます。これが驚天動地のスケールのでかさ。荒唐無稽として切って捨てることができないのが、本作品の力強さです。
前半ぐらいはどこに連れていかれるか分からないので、読了を断念してしまう可能性が大ですが、手に取ったなら、是非、最後まで読み通して欲しいですね。満足感は、絶大なのですから。
クライマックスは、自分が見るたびに泣いてしまう『ニュー・シネマパラダイス』を連想させてくれます。
本作品が素晴らしいのは、翻訳者に負うところが大きいようです。何より『フリッカー、あるいは映画の魔』という口当たりの良い邦題の効き目大でしょう。これだけで、ズバリと本作品の全てを総括しているんだよなぁ。
自分には本を読んで感涙にむせぶのが精一杯、というのを思い知らされた一冊でした。
上記で言及した1988年公開 フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン出演『 ニュー・シネマパラダイス 』はこちら。