【本の感想】石川九楊『書とはどういう芸術か―筆蝕の美学』

石川九楊『書とはどういう芸術か―筆蝕の美学』

子供が小さい頃、習い事のお付き合いで、年に一度、書道展に行きました。その年の厳選された書が展示されているのですが、情けないことに、自分の貧困な感性ではどこが優れているのやらさっぱり分かりません。「書は人なり」と言うぐらいなので、人を見る上でも書の善し悪しは分かった方がよいのでしょう。それでは、まずは理屈から入ろうと、石川九楊『書とはどういう芸術か―筆蝕の美学』を手に取ってみました。

書は、文字の美的工夫ではなくて、作者の切実な深みからくる表現、つまり言葉であるといいます。ここで自分が大きな誤解をしていたことに気付きます。書は、そもそも美しい形の文字を書くことを指しているのではないのです。そういう意味で、習字や書道の教育的な要素とは、一線を画しているといえるでしょう。同様に、著者は、西欧の絵画的発想で造形に重きをおく戦後前衛書家にも批判的です。

著者は、筆記具の尖端と紙が接触し、離れつつ書き進められていく過程のことを筆蝕といいます。書の表現は、政治的、社会的、人間関係的重力に生きる姿を描き出すものであり、筆蝕は自己と他者の総合的関係の比喩であるとしています。そして、筆蝕の速度=時間的、深さ=空間的展開で、ひとつの字画を描き出すことが、ひとつのドラマと化すというのです。書は筆蝕と構成から成ると。なるほど、文字をただの図形と捉えてしまうと、言葉をつむぎ出している力を感じなくなってしまうのかもしれません。書くという動作における速さ、深さ、そして力の入れ具合によって、瞬発的に思いが迸り出るということでしょうか。

著者は、さらに、歴史を紐解きながら論を進めていきます。書はそもそも石に刻られる書であり、それが紙に書かれる書に変遷していくのは、彫刻から絵画に転じるような革命的な大変革だといいます。「紙・筆・墨」の発見から、350年後の王羲之による二折法草書体の表現、三折法(トン・スー・トン方式)、行書、楷書を経て、草書体に三折法が逆流していくという書史を述べていきます。書であるか否は、この書史につながる筆蝕として表現されているか、であるとします。書は、歴史的な重みを持った紙・筆・墨の芸術なのです。

書は言葉の芸術でもある、そして、書には思想が透けて見えてくるはずであり、書は文学であると、著者は説きます。筆蝕が言葉の生成の全過程を支えているので、筆蝕が変われば、文章も文体も異なったものになるといいます。

太宰治や小林秀雄がワープロで作文していたら、あの太宰治も小林秀雄も、決して存在しはしなかったと断言できる。

家庭と教育の場と表現の場からはワープロは隔離し、追放したほうがよいのである。

という主張まで飛び出してしまいます。

本書を読むと、筆蝕が書には欠くべからざるものだということは分かります。しかし、書道展で見かけるのは、色鮮やかであったり、装飾的であったりするものが多いように思えます。著者に言わせると、

単なる思いつきと、下品な趣味で、絵具を用いて書きつづける前衛書道家の末裔

となりますか。書と書道というものが全く別ものであるとするならば、造形の美と割り切って鑑賞すれば良いのでしょう。ところが、書き手が、書いたものに中途半端な精神性を持ち込んでしまうから、理解し難いものになっているのだと思います。著者は、この現状を嘆きながら舌鋒鋭く切り捨てていきます。書は間接話法である等、面白い論考もあるのだけれど、厳しいお言葉に読み疲れてしまうのは否めないなぁ。